風信帖(ふうしんじょう)は、空海が最澄に宛てた尺牘3通の総称である。
『風信帖』(1通目)、『忽披帖』(2通目)、『忽恵帖』(3通目)の3通を1巻にまとめられ、その1通目の書き出しの句に因んでこの名がある。なお、国宝に指定されており、正式には弘法大師筆尺牘三通と呼ぶ。
※平安時代の日本では「尺牘(せきとく)」とは、漢文の書状を指し、女手によるものは「消息(しょうそく)」と呼ばれた。いわゆる手紙のことである。
日本天台宗の開祖伝教大師最澄と真言宗の開祖弘法大師空海という仏教界の双璧をなす両雄の交流を示す資料としてもこの3通の存在は貴重である。
元々は、5通あったが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次へ献上された。なお、1・3通目は、ともに空海が最澄からの書状に答えたものであることがわかる。
書風は、王羲之の書法に則した謹厳なもので、「風」や「恵」その他が『蘭亭序』と酷似している。
最澄は比叡山の経蔵を整理、補充するべく、空海から密典借用を頻繁に行っていた。40通に及ぶ最澄からの書状の大半は空海から密典を借用するための依頼である。
もちろん、仏典以外の遣り取りもあり、空海が40歳の中寿を迎えたとき作った『中寿感興詩』を最澄などの知友に贈っている。その返礼として最澄は、和韻の詩を作る旨の書状を送った。これが『久隔帖』である。
その後、天台法華一乗と真言一乗の優劣をめぐる考えの隔たりにより、最澄・空海の両雄は、訣別することになるが、『風信帖』と『久隔帖』は両雄が最も意気投合していたころの真筆ということになる。
空海(くうかい)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
修行時代、室戸岬の御厨人窟で、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。
803年、中国語の能力の高さや医薬の知識での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る。第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいたが、空海はまったく無名の一沙門だった。ちなみに、空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
●台東区ヴァーチャル美術館(建中告身帖)
https://www.city.taito.lg.jp/virtualmuseum/shodo/shodo_0201/003.html
●ウィキペディア(王羲之)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B